私は、京都で生まれ46才のこの年まで、京都以外で居住したことがありません。全国でいわれる京都人の評判どおりの「本音と建前」「腹のうちが判らない」人間を処世術として40の厄年まで通
してきました。
大学を卒業して以来、京都の分析機器メーカーに二十数年間在職し、それなりの不満も満足もない地位
と処遇を得た二十数年を過ごしてきました。骨の隋までサラリーマン根性が染み付いてもおかしくない状況で、起業を思い立ったのは、両親の死によるものが大きかったのではないかと思ってます。
父は、三重県の生まれですが、中国で終戦を迎え親戚を頼って京都でパン職人となり個人商店を営む中で日本の高度成長とともに働きづめの人生を送りました。母も、父と共に商店経営と3人の子供の養育に寝食を惜しんでの生活だったように思います。両親ともに60歳台の前半で人生を終えました。父も母も、同世代の人々の多分に漏れず、青春と人生の円熟期を、敗戦とその後の経済復興・高度成長という大きな日本の転機の中で過ごしました。社会の変動に押し流され自身の生活と子供の養育に明け暮れ、個人の夢の実現は後回しにしているうちに人生を終えたように思います。
両親の世代の犠牲の上にたって、私たちの世代は、多様な選択肢の中から個人の夢を実現する条件に恵まれた時代に人生を送っています。
ぼんやりとではありますが、両親が成し得なかった自己の実現が、私の起業のきっかけとなったように思います。
その意味では、環境分野の事業で起業する必然性はなかったのかもしれません。 |